日本は古来より四季の移ろいを五感で明確に感じることのできる世界でも稀有の国として存続してきました。季節は秋から冬へと移り変わりつつありますが、今回は、過ぎ去ってしまった秋を振り返るものとして、おおたの秋の風物詩や行事などを大田区所有の記録写真や美術作品によって、大田区立郷土博物館が紹介します。おおたの秋を見て、知って、「なるほど」を体感してください。そして様々な「秋」を満喫しましょう!
【大田区で盛んだった果樹栽培】
秋には様々な食材が実り旬を迎えます。そのため、「実りの秋」とも表現されますが、秋の味覚として知られる梨はかつて六郷地区の農家を中心に盛んに生産されていました。もともと多摩川河川敷の砂地が梨栽培に適していたことに加え、大師河原で当麻辰次郎(たいまたつじろう)の手により開発された新種の長十郎梨が病害虫に強く豊産性に富んでいたことが梨栽培に拍車をかけます。多摩川両岸では明治・大正期に梨が広く栽培され、農家の重要な収入源となるのです(「長十郎」の名は開発者・当麻辰次郎の屋号から付けられました)。
明治5(1872)年から同7年にかけて作成された『東京府志料』によって、江戸時代に起源を有する六郷地区の村々での梨の生産額を確認してみると、梨栽培は雑色村が特に盛んで、八幡塚村・高畑村がこれに次いだようです。雑色村では米麦生産額897円96銭を上回る数字を示し、八幡塚村では米麦生産額2343円90銭のほぼ1/4、高畑村では米麦生産額1225円16銭のほぼ1/2にあたります。雑色・高畑両村では梨が「所ノ名産トス」と記されている通り、梨の栽培が如何に重要な六郷地区の産業であったかがうかがい知れるでしょう。
歌川広重「三十六花撰 東都六郷 梨子」
慶応2(1866)年
六郷での梨栽培が盛んであったことを示すものです。右端に見えるのが多摩川であり、その沿岸に梨棚が広がる様子を描いています。
『東京府志料』にみる梨の生産農家の戸数と梨の重量・生産額
六郷地区での梨栽培は明治40年頃に最盛期を迎え、大正の中頃より衰退していきます。梨栽培衰退の原因としては、多摩川の度重なる氾濫と高潮、大正7(1918)年に始まる河川改修工事の影響、工場の進出に伴う公害問題などが指摘されており、昭和初期には大きく収穫高を減じていました。以降、梨栽培の本場は多摩川上流へと移っていきます。
ちなみに、大田区域内に長く居住し、風景画を得意とした木版画の絵師である川瀬巴水も「秋の味覚」を画題に作品を制作しています。
左:川瀬巴水「ぶどうとりんご」昭和15(1940)年作、版元:渡邊庄三郎
右:川瀬巴水 写生帖第47号、昭和15年10月24日
川瀬巴水の写生帖には身の回りの花や野菜のスケッチが散見されますが、実際に作品として制作された数は多くありません。秋の味覚「ぶどうとりんご」を描いた本作は巴水作品のなかでも珍しい木版画作品といえるでしょう。写生帖には本作制作のためのスケッチとしてぶどうとリンゴが単体で描かれています。巴水の日記によると、10月24日に写生、翌25日に原画を描いたことが記されていますが、なかなか気に入らず、3枚目にしてようやく描き上げることができたようです。
記録写真や美術作品で様々な秋を満喫!! 〜 果樹栽培編〜 はいかがでしたでしょうか。
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