昨今何かと話題の浮世絵・新版画などの木版画作品。仕掛け人(版元)や職人たちの“アイデア”や“技”によって生み出された作品の数々は非常に我々の胸を打つものがあります。今回はそんな先人たちの情熱と心意気に想いを馳せつつ、かつて味・量ともに全国一を誇った大田区大森の海苔養殖の歴史を振り返ります。大田区立郷土博物館が大田区所有の木版画作品や記録写真をご覧に入れつつお届けしますので、おおたの魅力を見て、知って、心震わせ、「なるほど」をぜひ体感してみてください。
海苔養殖の歴史
品川・大森など江戸近郊・東京郊外の海で盛んだった海苔養殖。生産された海苔は質量ともに日本一といわれ、江戸・東京の名産として名高く、東海道を往来する人々にとっては土産品として親しまれてきたものです。また、江戸の将軍家やその菩提寺の寛永寺、徳川御三家にも納められたため、「御膳海苔」とも呼ばれました。
海苔養殖は、海浜に漂う海苔を「藻採り」する自然採集から抜け出すことを目的として始まりました。人為的な海苔の生育装置を海辺に施すことで、生産の安定化を図ったのです。その時期は、江戸幕府8代将軍徳川吉宗の活躍した享保年間(1716〜36)と推測されています。方法は、浅瀬にヒビと呼ばれる麁朶木(そだぎ)を建て、その枝木に海水浮遊中の海苔の胞子を付着させ、成育するのを待ち、確実に、しかも大量に採取していくというものでした。この養殖技術が品川・大森の沿岸浅瀬で採用され、同地を海苔生産地として発展させる契機となったのです。
海苔養殖と木版画作品
そんな品川・大森で営まれてきた海苔養殖の風景は木版画作品に描かれています。歌川広重は『江戸名所百景』の内の1図として品川沖に海苔ヒビが広がる風景を鳥観的に描き、また、歌川国芳は木ヒビについた海苔を摘み採る様子を描写しました。そして、近代になると小林清親も独自の目線で海苔養殖の風景を表現しています。 また、大田区域内に居住した木版画絵師の川瀬巴水にとっても海苔は身近なものであったようで、昭和2(1927)年に大森から名古屋へ出かけた際、手土産として海苔を持参したことがわかっています。
今回は、絵師たちが描いた海苔養殖の風景をお楽しみいただくとともに、昭和38年春まで続いた海苔養殖の仕事場の風景を写真で紹介します。江戸時代から続いた伝統の海苔養殖の一端をご覧ください。
vol.2では海苔乾しの工程を中心にお届けします。
【小泉癸巳男「大森・海苔乾し」『昭和大東京百図絵版画完制判(第86景)』昭和12年2月/1937年】
画面手前に「台乾し」による「海苔乾し」の風景が描かれています。海苔乾しは、細かく刻んだ生海苔を海苔簀に張り付け四角く成形し、外れないように簀を目串でとめて裏から天日乾燥させ始めます。本作は、乾き具合をみながら、目串を抜き、簀を表に返しているところです。
画面奥の川(旧呑川)には中央を高くした特徴的な木橋が架けられています。下流の橋は満潮でも船が通れるように中央を高くしていました。呑川橋、あるいは潮見橋と推測されています。川面の海苔船は海苔採りを終えて家路に着くところかもしれません。船尾を先に航行しています。
【大森海岸での海苔乾し 大正時代】
昭和12(1937)年2月発行の小泉癸巳男「大森・海苔乾し」『昭和大東京百図絵版画完制判(第86景)』と同じく台乾しによる海苔の乾燥法を写し取っています。台乾しは、冬期のみ耕地に傾斜させた簀台を仮設し、海苔簀を目串で一枚一枚直接固定して乾かす方法です。台乾しでは急な雨での取り込みに手間取る不便がありました。
【最後の海苔乾し 昭和38(1963)年】
前年12月に漁業権を放棄しているため、旧呑川潮見橋下流の河岸付近に設けられた、この乾し場での最後の海苔乾し(枠乾し)を撮影したものです。枠乾しは海苔簀を格子状の木枠に縦5~6段、横3列に掛けて乾す方法で、一度に乾し返しができたり、急な雨でも簡単に取り込むことができたりと便利でした。
【川瀬巴水「大森海岸」『東京二十景』 昭和5年作/1930年】
『東京二十景』というシリーズでは、関東大震災後の復興によって近代都市として変化を遂げる東京の姿を描く一方で、皇居周辺や神社仏閣など、そして田園風景が広がる大田区域の風景が5図描かれました。
江戸時代から続く海苔養殖は、急速に変化を遂げる東京の中にあって、変わらず営まれてきた生業でした。桟橋奥の石積みには、海苔養殖の竹ヒビに使われる真竹が積み上げられており、その手前には海苔漁で使用する小舟が繋がれています。舟を手入れする人物や桟橋に傘を差して佇む人物は、スケッチとは異なり画面中央に移されました。
【川瀬巴水「昇る月(森ヶ崎)」昭和6年10月作/1931年】
暗闇の中にオレンジ色の月が印象的な作品です。大田区の森ヶ崎(現大田区大森南)でも、大森と並び海苔養殖が盛んに行われていました。川岸には海苔漁で使用すると思われる舟が係留しています。
【川瀬巴水「森ヶ﨑の夕陽」昭和7年1月作/1932年】
夕陽のグラデーションが美しい作品です。画面右の建物は海苔の乾燥小屋です。画中では、室内でストーブを焚いているのか、煙突から煙が出ています。この様子はスケッチをした時点で描き込まれており、忠実に作品化されていることがわかります。
【乾燥小屋の内部 昭和戦後期 田口久雄氏撮影】
乾燥小屋は天候が悪い日に海苔を火力乾燥させるための施設です。大森では昭和初期に建てられ始め、戦後に広く普及しました。小屋にストーブを設置し、燃料とした石炭の煙が煙突から立ち昇る風景は“海苔のまち”の象徴であったといいます。同じく海苔養殖が盛んであった森ヶ崎海岸にも乾燥小屋が建てられていたことは、川瀬巴水「森ヶ﨑の夕陽」(昭和7〔1932〕年1月作)からうかがい知ることができます。
いかがだったでしょうか?海苔養殖の歴史を知ると、毎日の食卓に並ぶ”いつもの海苔”も、きっと深い味わいと豊かな香りをもって存在感を増してくることと思います。次回コラムもお楽しみに!
vol.1はこちら
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