川合玉堂約50点の作品を川端龍子の作品とともに紹介
会期:2025年10月11日(土)~11月9日(日)
令和7年、日本画家・川端龍子(1885-1966)の生誕140年を迎えました。それを記念して「川端龍子展」が、富山、岩手、島根、愛知と昨年から今年にかけ各地を巡回して開催され、龍子の再評価熱がますます高まってきています。そして、龍子が自身で設立した龍子記念館においては、生誕140年特別展「川合玉堂と川端龍子」として、日本画家・川合玉堂(1873-1957)と龍子の雅趣あふれる交流を紹介する展覧会を開催します。 豊かな自然と人々の暮らしといった日本の原風景を描いて、名匠と称えられた玉堂と、大画面の作品で日本画表現の可能性を探った川端龍子の間には、画風の上からは大きな隔たりがあるように見えます。しかし、戦後、二人はラジオ番組での対談で俳句好きであることを知って、龍子が玉堂の暮らす奥多摩にまで訪れ親睦を深めたエピソードがあります。さらに、玉堂がこの世を去った際には、龍子が葬儀委員長を務めるほどの強い絆があったのでした。本展では、令和4年度に開館60年特別展として開催した「横山大観と川端龍子」に引き続き、龍子と日本画壇の巨匠の交流を紹介するもので、玉堂美術館の協力を得て、最晩年に大観、玉堂、龍子の三巨匠による展覧会を開くにいたった川合玉堂の制作を回顧しつつ、龍子の作品とともに展示します。
| ![]() 談笑する玉堂(写真左)と龍子(写真右)(昭和30年頃) ![]() 「川合玉堂と川端龍子」会場風景 |
明治期から最晩年まで玉堂の作品をたどる
本展では、明治期の《高嶺残雪》(1907年頃、パラミタミュージアム蔵)や、昭和初期に琳派を研究した《稲田の鶴》(1928年、北野美術館蔵)、紀元2600年奉祝美術展の出品作《彩雨》(1940年、東京国立近代美術館蔵)、太平洋戦争末期の《荒海》(1944年、山種美術館蔵)、そして絶筆の一つとされる《雨後》(1957年、玉堂美術館蔵)など、玉堂の生涯にわたる制作の歩みをご紹介します。
![]() 川合玉堂《義士討入之図》1890年、玉堂美術館蔵 | ![]() 川合玉堂《高嶺残雪》1907年、パラミタミュージアム蔵 |
![]() 川合玉堂《稲田の鶴》1928年、北野美術館蔵 |
![]() 川合玉堂《荒海》1944年、山種美術館蔵 |
![]() 川合玉堂《五月晴》1947年、青梅信用金庫蔵 |
![]() 川合玉堂《雨後》1957年、玉堂美術館蔵 |
玉堂の描く「鵜飼」と龍子《海鵜》の競演
玉堂は、1895年の内国勧業博覧会にて「鵜飼」を描いた作品を出品して以降、この画題を繰り返し描き、龍子は、1963年に《海鵜》を制作し、第三十五回青龍展に出品しました。両者共に「鵜」という水鳥をモティーフに制作しており、本展では、玉堂の「鵜飼」作品のうち4点と龍子作《海鵜》を併せてご覧いただけます。
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大観、玉堂、龍子の三巨匠展出品作
戦後、龍子は1948年の玉堂とのラジオでの対談をきっかけに親睦を深めました。また、日本画壇の重鎮・横山大観とは、龍子が再興日本美術院を脱退して以降、交流が途絶えていましたが和解し、1952年には、大観、玉堂、龍子による三巨匠展が、玉堂がこの世を去る1957年まで開催されました。
本展では、雪月花展の第3回(1954年、パラミタミュージアム蔵)、松竹梅展の第2回(1956年、水野美術館蔵)と第3回(1957年、パラミタミュージアム蔵)における3者の出品作を展示します。
第2回松竹梅展(1956年)出品作
![]() 川端龍子 松《唐崎夜雨》1956年、水野美術館蔵 | ![]() 横山大観 竹《竹外一枝》1956年、水野美術館蔵 | ![]() 川合玉堂 梅《野梅》1956年、水野美術館蔵 |
第3回松竹梅展(1957年)出品作
![]() 川合玉堂 松《若松》1957年、パラミタミュージアム蔵 | ![]() 川端龍子 竹《昔噺》1957年、パラミタミュージアム蔵 | ![]() 横山大観 梅《紅梅》1957年、パラミタミュージアム蔵 |
富士登山中に知らされた玉堂の訃報
龍子は72歳に富士登山に挑みました。七合目へと向かい、山小屋から自宅へ連絡をしたところ、玉堂の逝去を知ります。《御来迎》(1957年、大田区立龍子記念館蔵)は、その富士山頂で見た日の出の印象を描いた作品であり、そのタイトルは、極楽浄土へと導かれていく玉堂の魂を見出そうとした一作として捉えることができます。
![]() (右)川端龍子《御来迎》1957年、大田区立龍子記念館蔵 |
玉堂と龍子、二人の絆をぜひ作品を通してご覧ください。