梅は昭和51(1976)年に「区の花」として制定されました。古くから大田区の土地になじみ、歴史的な由緒も深い梅。花は気品に満ち、早春の寒さに負けず咲くその姿は、 若い世代の人が多い大田区には特にふさわしいものとして選ばれました。
区内には多くのおすすめ梅スポットがあります。こちらの記事では、大田区立聖蹟蒲田梅屋敷公園を紹介します。
(記事後半では、今日の「大田区立聖蹟蒲田梅屋敷公園」に至った記述もございます)
公園概要
所在地 大田区蒲田三丁目25番6号
アクセス 京急線梅屋敷駅より徒歩5分
主な樹木 ウメ、クスノキ、イロハモミジ
梅の写真
梅の木村 蒲田とは
医業を生業としつつも国学者・歌人としても高名であった清水浜臣は文化4(1807)年の春、観梅のため、江戸を出発して蒲田、次いで杉田(現神奈川県横浜市磯子区)に足を延ばしました。その時の記録をまとめた『杉田日記』において蒲田は「梅の木村」と称される程、梅の木が多くあったことを伝えています。『新編武蔵風土記稿』巻41「北蒲田村」には「土産梅実」の項があり、「当所ノ土性ワキテ梅樹ニヨロシ」と記しています。東海道に沿う地点にあった北蒲田村の土壌がウメの生育に適していたというのです。
では、梅の木は何を目的として蒲田に植えられたのでしょうか。『新編武蔵風土記稿』によりますと、陸田の間あるいは農家の庭先に梅の木は植えられ、副業としての実の生産が第一義でした。そして、この実は、江戸に出荷されたり、大森名産の梅干しや梅びしお(梅干しから塩味や酸味が少し残る程度に塩抜きをして砂糖で煮詰めたもの)製造の原料にされたりしました。しかし、白い花も人々の眼を楽しませたため、やがて観賞用としての役割も備わり、一農村に過ぎなかった蒲田は花の盛りの頃には観梅を目的として人々が訪れる郊外行楽地と化していくのです。
こうして蒲田の一角に整備されたのが和中散(道中の常備薬)売薬所を経営していた山本久三郎の梅園で、梅の沢山ある蒲田の屋敷(蒲田梅屋敷)として亀戸の梅屋敷と並び称される程の人気を得ました。江戸幕府の要人や皇族も訪れ、20世紀の初頭まで賑わいは保ち続けられたのです。なかでも明治天皇は梅園の風致を大層気に入られ、明治元(1868)年10月に訪れて以来、都合5度この地を訪れています。時の天皇が訪れた場所、「聖蹟」として語り継がれる所以で、この地は昭和8(1933)年11月2日に文部大臣より明治天皇御聖蹟地として保存指定を受けました。そして、近代的な都市化のなかで東京市の公園のひとつに変じ、昭和28(1953)年からは大田区管轄の公園となり、今日の「大田区立聖蹟蒲田梅屋敷公園」に至るのです。
初代歌川広重「名門江戸百景 蒲田の梅園」 安政4(1857)年 (大田区立郷土博物館所蔵)
初代歌川広重『絵本 江戸土産』二篇「蒲田の梅園」 嘉永3(1850)年 (大田区立郷土博物館所蔵)
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