記念館には、海舟自身が着ていた肩衣・長袴も収蔵されています。また、今後は、海舟の弟子・佐藤与之助と坂本龍馬が海舟に宛てた書状も展示予定なのだそう! この度、勝家とのご縁があり、このような貴重な品も展示できることになったそうです。ただ、古いもののため、やはり傷みもあり、展示するまでにはなかなかの苦労もあるよう。
肩衣・長袴は史料保全のため、展示しているのは丁寧に修復した原物から精巧に作製されたレプリカです。今回は、この2点の史料の修復時の様子についてお話を伺いました!
肩衣・長袴
海舟が登城の際に着用した長袴
当時、武家においては、位階が五位(正五位・従五位)の「諸大夫」となると、大紋・長袴を式服として着ることが許されました。海舟は、元治元(1864)年5月14日に軍艦奉行に補任された際、「従五位下」の位階と、これに相当する「安房守」の官職を与えられ、諸大夫となります。軍艦奉行となった海舟は、この衣装を着て登城したものと思われます。
ちなみに、海舟が諸大夫への昇進の内示を受けたのは、実はこの約1年前。文久3(1863)年5月8日に老中・板倉周防守勝静から内示を受けますが、この時は「微臣一介の功なく、彼らに高官に進まんことは、もとより素願にあらず」「丈夫、風雲の会に乗じて、私身を以て先んぜんや、我輩深く恥る処」(『海舟日記』)という理由で辞退。海舟は神戸海軍操練所をつくること、ひいては幕府と諸大名による「一致の海軍」を創設することを、当時の自身最大の任務と心得ていた模様。この時点ではまだそれを成し遂げていなかったため、辞退したのではないか、と考えられているそう。海舟らしい謙虚さが窺えるエピソードですよね。
浅青麻地に勝家の表紋「丸に剣花菱」
海舟が着ていたとされるこちらの肩衣・長袴は藍染の浅青麻地で、表地には「鮫小紋染」、裏地には「糸染」が施されています。また、肩衣の胸と背部分、長袴の腰部分には勝家の表紋「丸に剣花菱」があしらわれていました。
修復の様子
修復の様子を一部公開します!
Before
全体的にシワやカビがあり、経年による色あせや畳みジワ部分の変色も。
形や張りを維持するため、裏地の内側に和紙が貼られた部分は、特にくっきりとシワが。茶色いシミがついている部分も見られました。
修復
生地を傷めないようクリーニングし、形を整える
染織品の修復で最も重要なことは、「生地を傷めないこと」。藍染の色味、表地の鮫小紋染、裏地の糸染など、生地本来の色や模様を損なうことなく手当を行い、形を整えることが最大のミッションだったそう。
①汚れ落とし まず、柔らかい刷毛を使ってホコリや汚れ、カビの痕を払い、吸引・除去。しぶとい汚れは筆で部分的に水分を加え、吸取紙に汚れを吸着させ、慎重にクリーニングを繰り返す。
②形の修復 その後、加湿しながらシワを伸ばし、形の崩れた部分を修復。今回は、肩衣の袖口や肩口にのり離れが見られ、肩の山の中に縫い込まれていた芯(鯨のひげ)が飛び出していたところも。こうした箇所も様態を見ながら形を整え、留め付けを行った。
After
丹念に修復した肩衣・長袴をもとに再現したレプリカ(写真左)。原物の様子も、館内の「海舟クロニクル」にあるタッチパネルで見ることができます(写真右)。
ちなみに……
勝家の裏紋の一つに「可文字」があります。あまり見かけないこの家紋は、海舟のお墓の墓石にも彫られていて、見ることができます。海舟のお墓は記念館のすぐ隣にあるので、こちらにもぜひ足を運んでみられては。
向かって右が海舟、左が海舟夫人・民のお墓。五輪塔の形をした質素な墓石はなんと、海舟自身のデザイン。献花台の後ろに「可」の文字が確認できました!
勝海舟宛 佐藤与之助・坂本龍馬連署書状
書かれたのは、神戸海軍操練所建設の頃
書状のほうは、神戸海軍操練所の留守を預かる海舟の弟子佐藤与之助が、文久3(1863)年7月25日付で江戸にいる海舟に宛てたものだそう。
「この年の4月、海舟は、上洛中の第14代将軍徳川家茂を順動丸に乗せて摂津海上を案内しながら海防の重要性を説明し、その後、海路経由での将軍の江戸帰還も成し遂げています。神戸海軍操練所の建設許可も、この間に家茂から得たんです。書状は、佐藤与之助と坂本龍馬の連署になっていますが、全文与之助の筆で、全長は3mを超えるんですよ」と学芸員さん。
龍馬の抱く「神戸海軍構想」が読み取れる、重要な内容!
「龍馬は日本の海軍のあり方について、ある構想を抱いて活動していました。与之助は、そのことをこの書状内で海舟に伝えているんです」。
その要旨は、「神戸海軍の総督は朝廷が選び、その下に身分を問わず人材を集めるべき」であり、「神戸海軍の運営費は、勅命により西国諸侯から出させ、『関西の海局』とすべき」というもので、「幕府のもと“日本全体一致”の海軍をつくろう」という海舟の構想とは少し違う独自のものだったそうです。神戸海軍操練所は幕府の施設ですが、龍馬は幕府海軍から離れた「朝廷・西国中心の海軍」という構想を抱いていたことが指摘されているのだとか。これは、本当に貴重な資料であることがわかりますね!
修復の様子
修復の様子を一部公開します!
Before
「袖」と呼ばれる紙の最初の端部分は、特に傷みが激しく、カビの痕(斑点)や虫食いの痕(小さな穴)、和紙の繊維がほつれて綿状になる「老け」も見られたそう。修復が大変そうですね。
3mを超える長さのこの手紙では、7枚の紙がのりで貼り継がれていたそうですが、経年劣化でのりしろの部分が弱くなり、部分的に剥がれてきている箇所もあったそう。
修復
汚れを落とし、欠損部分を補強する
古文書の修復では、紙や書かれた文字を損なわないよう、細心の注意を払うことが求められるといいます。この書状でも、汚れを丹念に取り除いた後、適切な質と量の水を用いてシワとヨレを伸ばしていったのだそう。
①汚れ落とし まず、先の柔らかい刷毛を使ってホコリやチリを取り除いたあと、ピンセットなどで虫食い部分にこびり付いた虫の糞なども除去(ドライ・クリーニング)。
②シワとヨレを伸ばす 次に、スプレーで水を和紙に吹きかけながらシワとヨレを伸ばす。紙や、そこに書かれている墨文字を損なわないよう、水はpH値を調整し、不純物を濾過した精製水を、分量に気をつけながら使用。損傷の度合いが大きい箇所は、紙と紙の継ぎ目部分を一旦はがし、部分ごとに慎重に。
③欠損部分を裏側から補う 破れや穴のある部分の裏面を、新しい極薄の和紙で覆い、馴染ませたところに刷毛でデンプンのりを塗り(裏打ち)、乾燥させる。最後に、紙の継ぎ目部分を接着し直し、再びはがれないように補強する。
After
きれいに修復された冒頭の「袖」部分。
佐藤与之助・坂本龍馬の連署部分。見違えるようにきれいになりました!
史料は朽ちて弱くなった部分から劣化が進行するといいます。そのままバラバラになり、失われてしまった史料も多いなかで、今日にまで生き残ったものはみな、数々の危機的状況を乗り越えてきたものというわけです。そう考えると、その奇跡的な運命に胸を打たれますね。
なお、こうした史料の修復は皆様からのご寄附で行っています。詳しくは【3.エピソード編】の「3.勝海舟基金の創設」をご覧ください。